もしもピアノが弾けたなら思いの全てを歌にして君に伝えることだろう。だけど僕にはピアノが無い、君に聴かせる腕も無い。心はいつも空まわり、伝える言葉が残される。嗚呼。嗚呼。嗚呼。嗚呼。

何もかもを、鍵盤に叩きつけてきた、青春の日々…。


とか言いてぇー。

言いてぇーよー。


つーか、ちょっと言っちゃった。


世間の「のだめ」人気の中、職場でピアノの話になったとき、
ついつい、もう何年も封印してきたあの言葉を、


「あー私も、ピアノ習ってたんですよー」


言っちゃった。

言ったもん勝ち。


なんなの、この『ピアノ習ってた』っていう言葉の魔力。

言った瞬間、ちょっと気持ちよくなっちゃう、この呪文。

「あたしピアノ習ってた」っつー、この言いようのない素敵感覚。


したっけ、職場の先輩が

「えーじゃあ、今度聞かせてー」みたいな、

「あーいいですよー」みたいな、

後輩まで

「私も実はやってたんで、今度連弾しましょうよー」

「オーケー、するするー」みたいな

で、なんか話しにまざってきた婦長とかが

「じゃあ、今度お楽しみ会の時に、
 患者さんたちの前で弾いたらどう?!」

主任が

「たしか、デイルームにピアノがあったわよねー!」

通りすがりの理学療法士

「あ、ピアノだったら、いつでも使ってもらっていいですよー、
 来月あたりやったらどうですかー?」



あら、結構、話が具体的に…。


って気づいた時には、エレベーターに

『次回11月のお楽しみ会は
 看護師によるピアノ演奏です』

みたいなポスターが貼られてました。

ちょっと、むしり取ってみたんですが、
次の日、また貼られてました。


あたし・・・・また・・・



私は確かにピアノ、習ってた。

6年間も習ってた。

小学校の1年から6年まで、真剣に通って、
ピアノを習って、

まさか自分が習ってるものが、ピアノじゃないかもしれないなんて、
思いもしなかった。


そして小6のある日、
何人かの友達と下校してるときピアノの話になった。

「今バイエルのどこやってるー?」

「2組のゆうこちゃんバイエル終わったんだってー」

「すげー」

「早くないー?」

この最後の「早くないー?」ってセリフは間違いなく私が言ったんですが、一種の賭けみたいなもんでした。

通学路の角で別れて、親しい子と二人きりになったとき、

「で、バイエルって何?」

って聞きました。

バイエルなんて、6年のピアノ人生で、一度も耳にしたことなかった。

その質問を投げかけた瞬間、
友達があまりにも信じられない表情をしたので、

「いや、だからー、あなたにとってのバイエルって何?」

みたいなニュアンスに方向転換して乗り切りました。



何かが、おかしい・・。



で、家に帰って、両親を突き詰めて、

初めて自分が習ってたものが、オルガンだったことを知りました。

まず、ピアノですら無かった。

で、6年も師と仰いできた人、ピアノ講師じゃなかった。
ただの文房具屋のおばちゃんだった。

そして、私が教本としてやってきた曲、
全部、文房具屋のおばちゃんの旦那自作の歌だった。

月謝、お米券で支払われてた。



「まさか…6年も続くと思わなくて…ごめんね?」
              (両親&酒井文具 談)


こうして、私は6年間習い続けたピアノ(もしくはオルガン)を辞めた。

右手でメロディーを弾きつつ、
左手でも同じメロディーを弾くことに疑いすら持たなかった6年間。

酒井文具のおばちゃんの
「これがダブルメロディーだから!
 これがダブルメロディーだから!
 おばちゃん 考えた技だから!」
だけを信じてやってきた6年間。




そして転機はその6年後にやってきた。


高校最後の合唱コンクール


クラスでピアノ伴奏者を決める学級会。


私は、好きな人と席替えで奇跡的に隣の席になるというビックイベントにすっかり浮かれて、

浮かれきって、

「ピアノ」なんて言葉が飛び出した日にゃー思わず


『実は私も6年間、ピアノやってたんだー』


とかね、もうね、言うっきゃないよね。

言う以外の選択肢、ないよね。

でもね、間違っても選ばれっちゃったりしないようにね、
その辺は抜かりなくね、
小さめのね、
いたってストロベリートークな感じでね、
なんなら小鳥が窓辺で おしゃべりしてんじゃないかなーぐらいの声でね、
言ったんです。
完璧だったんです。
万全だったんです。


盲点としてはねー、
うちのクラスは、たまたま他にピアノ経験者がいないっつー
芸術的に全く恵まれないクラスだったってことかなー。


っつーわけで、10分後には、すっかり唯一無二のピアニストとして
軽く祭り上げられてたとしても、誰も私を責められないよねー。


そのときには、もう何か、小声で
「そういえば、ピアノっつーかオルガンだったかなー?」
とか言っても、歓声にね、完全に かき消されてました。



で、演題なんですけどねー

えっと、知る人ぞ知る『大地讃頌(だいちさんしょう)』でした。


楽譜・・えらいことになってた。

いや、これはさすがにやりすぎでしょ?っつーくらい音符ついてた。

親の仇かっつーくらい音符ついてた。

またまた〜こんなに鍵盤無かったでしょ〜っつーくらい音符ついてた。


えっと、ダブルメロディーで補える範囲は、間違いなく超えてました。


で、まぁ・・えっと・・合唱コンクール当日なんですが、

えっと、なんつーか、

朝、起きたら・・・

みたいなSF風のはじまりで、ちょっとファンタジーっぽいのだけど、

えっと朝起きたら、とても、起きちゃいけない時間でした。

例えば、どのくらい起きちゃいけない時間かってことなんだけど、

窓の外見たら、朝ですら無かった。

軽くまっくらだった。

日・・落ちんの・・早くなったなあ・・なんて。

いや、何か、お腹がね・・結構、痛かったかもしれないかなって、
今となっては思うんですけど。


で、まぁ、主役不在の合唱コンクール
一体どうなったかなんですけど、


えっと、今日は、そんなクラスメートたちの後日談を聞きながら、
お別れしたいと思います。




1998年 合唱コンクール 3年D組 『大地讃頌』後日談 


『もうさー、高校最後の合唱コンクールつったら、
 青春じゃん?
 友情じゃん?

 もうね、
 「加藤は絶対くる!」
 「加藤以外にうちのクラスの伴奏はいない!」
 なんつって燃えたよね。

 音楽の先生とか、他のクラスの伴奏者とかね、
 寄せ付けないくらいの友情発揮したよね。

 なのに、加藤、ほんと、こねぇーし。』


『結果、うちのクラス、アカペラ。
 高校始まって以来の「大地讃頌」アカペラ。

 みんな死んだ魚のような目と抜け殻のような声で、
 アカペラっつーより、ある意味のゴズペルだった。』


大地讃頌っつーか、参照できるもんなら、いっそ
 前のクラスのを是非参照していただきたかった。』


『もちろん伴奏ないから出だしはバラバラ。
 俺は痛恨のフライング。
 緊張しすぎて、しかも裏声。
 ちょっとしたオペラっぽかった。』


『なのに、
 1人オペラが混ざる中、肝心なソプラノは、
 高さに負けて途中で音程下がっちゃって
 最終的にアルトより低いとこ歌ってた。』


『結果、全くハモってなかった。』


『しかも、大地讃頌
 他のパートが結構ちがう歌詞を歌うのがおもしろみで、
 そしてそれが合わさった時初めて歌になるにも関わらず、
 もう、アルトもテノールも自分がどこ歌ってるか分からない
 全くの手探り状態。
 バスなんか一足先に歌い終わっちゃってた。』


『バス残り1分間 棒立ちだった。』


『バスが終わったせいで、焦って指揮は早くなるし、
 みんなも焦って早くなって、
 最終的に大地讃頌、ちょっとラップっぽくなってた。』


さだまさし かと思った。
 って見に来た両親が言ってました。』


『完全に自信を無くした最後の見せ場の
 【母なる大地を ああ
  讃えよ大地を ああ】
 は、ちょっとした喘ぎ声かと思うくらいだった。』



えっと、みんな普通に結構、次の日クチきいてくれなかったので、
後日談を聞き出すまでに5年くらいかかりました。